医師免許を獲得した野口は、明治30年10月、血脇の世話で高山歯科医学院の病理学と薬物学の講師となった。学僕として用務を行っていた野口が、ある日突然教師として教壇に立ったのである。学生達の驚きは相当なものであったという。野口も“自分の一生のなかで、あれほど愉快だったことはない”と回想している。その後、やはり血脇の斡旋により、清作は順天堂医院の助手となったが、仕事は「順天堂医事研究会雑誌」の編集であり、月給2円の薄給であった。
 この頃、野口は、破廉恥な放蕩医学生・『野々口精作』を主人公にした坪内逍遙の小説「当世書生気質」(昭和18年)の存在を知る。自分をモデルにして揶揄したような内容に驚いた野口は、多くの人の手をわずらわし、明治31年夏、野口英世と改名している。
 開業医の免状を受けたものの、臨床医としての光明を見いだせなかった野口は、その頃から医学者を目標にすべく決意を固めていった。彼の学問的関心は、隆盛を誇っていた細菌学へ向かい、さっそく順天堂の上司や血脇を介して、明治31年4月、助手補として伝染病研究所に入所を果たした。
 野口の語学力は高く評価され、外国の図書・論文の整理、抄録、雑誌の編集などをまかされ、野口も熱心に仕事をこなし、他人に倍して勉学に励んだが、研究所は正規の医学教育を受けていない開業試験合格者が優遇されるところではなかった。