明治32年4月、来日した病理学教授フレクスナーが伝染病研究所を訪れ、所長の北里柴三郎に通 訳と案内役を命じられた野口は、小躍りせんばかりに喜んだという。当時、学問を志した者にとって海外留学は出世の糸口であり、ハクをつける有効な手段であった。すでに留学の構想を胸に抱いていた野口は、フレクスナーらを案内しながら、米国留学の希望を述べ、その可能性を打診した。フレクスナーは儀礼的に住所を教えているが、それは野口にとっては“約束”であった。
 明治32年5月、横浜の海港検疫所に赴任した野口は、入港した船の中国人船員がペスト患者であることを発見し、その功績が認められて、10月にはペスト流行の兆しのみえた清国・牛荘の国際予防委員会中央医院に派遣されることとなった。出発に際して挨拶に来た野口の憐れな夏服姿を見て、血脇は部屋に敷いてあった赤毛布を与え、「世の中は五分の真味に二分侠気あとの三分は茶目でくらせよ」と歌を作り励ましたという。
 

横浜検疫医官制服姿の野口英世(22才)
 
 タフで実践に強く、外国語に堪能な野口は現地でも貴重な存在となり、国際衛生局、ロシア衛生隊から誘われて現地にとどまり、33年7月に帰国している。この間、かなりの高給を得ており、海外留学の資金を蓄える絶好の機会であったが、その放蕩ぶりは改まることなく、かえってエスカレートしていた。
 帰国後、故郷の友人から留学費用の融通を快諾されたものの、恩師・小林先生に“自分の腕で留学費をつくりだせ”と説教されて、東京に戻った野口は再び血脇のもとに転がり込んだのであった。