明治33年2月から、血脇は高山歯科医学院を継承し、東京歯科医学院と改称して新たに出発していた。野口は講師として学院に戻り、血脇家の食客として、奥村鶴吉らと寝食をともにしている。野口はあれこれと留学の方途を画策していたが、どれもうまくいかず途方に暮れていた。
 学歴社会の日本では才能を生かしきれず、自由な天地を夢見て焦りを募らせた野口は、血脇のつてにより、“帰国後に結婚する”という条件で斉藤家の養女と婚約、持参金の名目で300円を渡航費用として確保している。なお、数年後にこの婚約は解消にこぎ着けているが、それも全て血脇の奔走によるものであり、持参金の返却も血脇が行ったという。
 ところが野口の浪費ぐせは途方もなく、出発の直前、横浜の料亭で送別会と称して、 友人数十人と豪快な宴会を繰り広げ、なんと一夜にして渡航費用のほとんどをつかいはたしてしまったのである。翌日、謝りに来た野口から話を聞いた血脇は、さすがに呆れて言葉を失ったと言う。しかし、野口の将来を案じた血脇は、とうとう生涯で初めて高利貸しからお金を借りて、野口の渡航費用とした。野口は感激の涙を流して喜んだが、血脇もさすがに懲りたようで、この時は横浜港から出航するアメリカ丸の甲板上で切符を手渡したという。明治33年(1900)12月5日のことであった。