その後、さらに黄熱病の研究に打ち込んでいく野口であったが、この頃から野口の黄熱病研究に疑問を呈するものがではじめており、その多くはウイルス説、あるいは、少なくとも微細な濾過性病原体説をとっていた。自らの研究に確信をもっていた野口は、こうした疑問を一蹴するため、さらに研究に打ち込んだが、細菌学的研究では思わしい成果があがらなくなっていった。1927年10月、ウイルス説に傾きつつある黄熱病の病原体を発見するため、野口は悲壮な覚悟でニューヨークを出帆し、アフリカに向かった。このとき、メアリー夫人が強く反対したのは虫の知らせだったのだろうか。
 アフリカのアクラで黄熱病の予防法、治療法の発見に取り組んでいた野口だが、自身が黄熱病を発病し、1928年5月21日に享年51歳で息を引きとった。
 世界中の新聞はいっせいに“ドクター野口、アクラに死す”と報じた。日本では5月23日付であった。血脇はちょうど満鮮旅行の途次にあり、23日午後3時“ノグチハクシアフリカニテシス オクムラ”というウナ電を受け取っている。一瞬絶句した血脇は“テハイヨロシクタノム チワキ”との返電を打った。それが精いっぱいであった。血脇も、野口の客死を予測しないではなかったが、それはあまりにも突然であった。
 日本では6月29日、日本工業倶楽部において、政界、官界、医学界800余人の会衆を集めて野口の追悼会が開かれている。また、東京歯科医学専門学校の学生会は、7月3日に追悼会を行った。「野口博士を悼む」と題した血脇の思い出話は、次のような言葉で結ばれている。“ああ、野口英世君、君の肉体は滅びたりといえども、君の不抜なる魂は不滅の生命として人類のうえに永遠の光明を与えるでありましょう。願わくば聞く能わざる君の声と見る能わざる君の光によって、多くの人々が指導せられ鼓舞せられ奮起して、この世に貢献せられんことを祈念してやみませぬ”。


東京歯科医学専門学校・野口英世追悼会
(壇上は血脇守之助)
 

野口英世墓碑

 野口英世はニューヨーク郊外のブロンクス区ウッドローンに眠っており、
その墓碑 銘は次の言葉で終わっている。
 “Through Devotion to Science, He Lived and Died for Humanity”
(彼は科学を通じて、その生涯を人類への愛に捧げた)