1979年(昭和54年)2月24日に、血脇守之助の伝記である「血脇守之助傳」が完成、発刊されている。これは、1970年(昭和45年)11月8日、東京歯科大学創立80周年の記念式典挙行を機に、血脇守之助の偉業を辿るための伝記の編纂が記念行事の一環として企画されてから約9年の月日を要して、発刊されたものである。
 この本は非売品で残部も僅少であり、現在は入手することができない。ただし、全国の都道府県立図書館の多くに寄贈されているので、お読みいただければ幸いである。(抜粋版を当ホームページの「血脇守之助の生涯」に掲載)
 編集にあたった血脇守之助傳編纂会議の事実上の責任者は石川達也学長であり、編纂の経緯、苦心談、発刊後の反響などについて次のように語っている。(東京歯科大学広報 第69号より)

 昭和54年2月24日は故血脇守之助先生の33回忌にあたる。血脇守之助傳は、この御命日を刊行の目標にして作業が進めてこられていた。2月20日には献本式に使用される伝記が完成し、鹿島俊雄理事長、松宮誠一学長、井上真同窓会長そして私が、血脇家ご親族によって開かれた献本式に参列した。
 この伝記の刊行目的は、わが国の近代歯科医学興隆の柱がどのようにして組立てられていったかを、また守之助先生が創始者集団(creative minority)の実質的リーダーとしてどのようにして進路を開拓されていったかを明らかにするのが本来の目的であった。編纂の経過は、非公式の調査委員会が昭和41年11月5日、故福島秀策先生直々のお声掛かりで招集されたことに始まり、次いで学校法人東京歯科大学が、東京歯科大学創立80周年記念並びに血脇守之助先生生誕100年記念実行委員会の事業の一環として血脇守之助傳編纂委員会を発足させるに及んで、昭和45年8月13日正式に委員会が成立した。
 血脇守之助先生の事跡については口伝に類する形で言い伝えられていることが少なくなかったが、体系的に記述されたものはなく、断片的内容が残されているに過ぎず、史料の収集から始めなければならなかったから、作業は遅々として進まず、まして事跡の流れを追うことは、一時期むずかしさを通 り越して不可能とさえ思われた。また当初、委員会から血脇守之助先生が、何故歯科界に入られたかを明らかにすることが必要であるというテーマが出され、紆余曲折の検討後、ご自身の一念発起であることが判明したが、その前後の事情を勘案すると、青雲の志をいだいて勉学に励んだ一青年が、人生行路の指標を求めあぐねてやっと歯科医への道を見出したという方が適当であろう。誰しもが経験することであるが、確固たる見透しの下に人生の設計をするなどという恵まれた人はほとんどいないのが実情で、守之助先生もその例外ではなかったのである。歯科界入りを決意された後の守之助先生は水を得た魚の如く、大活躍をされることとなったが、逆に考えると、血脇守之助先生という一流の人物を得た歯科界また東京歯科大学は先生によって随分と有利な地歩を固めることができたといえよう。歯科界が社会に一つの勢力圏を作りあげることができた原動力は、血脇個人の力量 に大きく左右されていたのである。この血脇先生の力量が何処から得られたかを辿ってみると、秀れた人物との交友関係から生まれたものが少なくないことを知ることができる。若い時代の交友がどれほど人の将来に大きく影響するかを教えられる貴重なお手本である。また行くところ強力な後援者が現れる不思議さは、血脇守之助先生の人柄と魅力が尋常のものではなかったことを示していると同時に、近代日本興隆の時代的背景の秘密の一端を示唆している。人物にほれ、徹底的に後援するそういう土壌が古きよき明治時代に育ぐくまれていたのであろう。
 この伝記が刊行されると、実に多くの方々から松宮誠一編纂委員長および編纂委員会宛に感謝の手紙が寄せられた。血脇イズムの伝統を今なお胸に歯科界で活躍されている同窓から寄せられたものが多かったが、同窓以外の方々でも、これを非売品として東歯関係者だけに配布されるのは勿体ない、広く歯科界に知らしめる必要がある、改めて有料で出版されたらどうかという推称文を寄せられた方も少なくない。歯科界の歴史を改めて反芻するよい機会であるという理由からであろう。
 編集後記にも記されているが、発足以来9年、その前の段階をいれると約13年の長期作業であったため、実に多数の方々が、この事業に参加ないし協力された。その方々の尽力と好意が、血脇守之助傳の頁の一行一行に満ちあふれている。血脇守之助傳は、その意味では、先生の余徳によって出来上がったといっても過言ではない。