明治25年(1892)10月、会津若松の会陽医院ドクトル渡部 鼎の手により、清作は火傷した左手の手術を受けた。手術に感動した清作は、医学の道に進むことを決心した。清作は、会陽医院に入門し、薬局生となり医学の勉強をした。会陽医院は明治17年(1884)に建築され、現在は1階が喫茶店、2階が野口英世青春館となっている。
 血脇守之助は、夏季休暇中に会津若松に来て、渡部 鼎の会陽医院の筋向かいの旅館に一室を借りて出張歯科診療を行っていた。診療を終えて、渡部院長と歓談していた守之助は、部屋の片隅で熱心に原書を読む清作の姿に驚き、上京の折には立ち寄るようにと励ました。この一言が、清作のその後を決める“天の声”となった。血脇26歳、野口19歳、ともに新時代にふさわしく、若く情熱にあふれた俊英であった。

会陽医院跡

退院の日
級友 八子弥寿平と

渡部 鼎
 
 

 明治29年(1896)、19歳の清作は、さらなる勉学の地を求め上京を決意。その思いを込めて、生家の床柱に「志(こころざし)を得ざれば再び此地(このち)を踏まず」と刻み、上京した。

 血脇守之助は、慶応義塾を卒業。米国歯科医学の重要性を知って高山歯科医学院に学び、講師となり 学院幹事も兼ねていた。
 明治29年、上京して医術開業前期試験に合格した野口は、無一文になり血脇を頼って来た。血脇は高山院長の意に背き、野口を学院の寄宿舎に秘かに住まわせた。学院でアルバイトをさせ、その後、下宿を世話し、医術開業後期試験のため学費援助を惜しまなかった。この時から血脇と野口の“師弟関係”が始まった。


床 柱

上京当時の野口清作

血脇 守之助

高山歯科医学院
(明治23年開設)