明治29年(1896)、19歳の清作は、さらなる勉学の地を求め上京を決意。その思いを込めて、生家の床柱に「志(こころざし)を得ざれば再び此地(このち)を踏まず」と刻み、上京した。
血脇守之助は、慶応義塾を卒業。米国歯科医学の重要性を知って高山歯科医学院に学び、講師となり 学院幹事も兼ねていた。
明治29年、上京して医術開業前期試験に合格した野口は、無一文になり血脇を頼って来た。血脇は高山院長の意に背き、野口を学院の寄宿舎に秘かに住まわせた。学院でアルバイトをさせ、その後、下宿を世話し、医術開業後期試験のため学費援助を惜しまなかった。この時から血脇と野口の“師弟関係”が始まった。
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