加藤守之助(後の血脇)は,明治3年(1870)2月1日,加藤誠之助,たき夫妻の長男として,下総国南相馬郡我孫子駅(現我孫子市)に生まれた。
 加藤家は江戸中期よりかど屋という旅籠屋を代々営んでおり,たきはその6代当主として家業をきりまわし,“我孫子きっての才媛”といわれた評判の高い女性であった。
 誠之助の生家は秋山家で,代々名主を務めた家柄である。誠之助は身の丈5尺7寸の容貌魁偉,彰義隊に身を投じたが敗走し,明治2年,23歳で加藤家に婿入りしている。たきは20歳であった。誠之助の律儀な性格と,たきの父・栄助の義に富む気風とはよく調和し,和やかな家庭を築いていた。
 明治6年6月に妹のゆきが生まれたが2カ月後に死亡,たきもまもなく病の床につき,8月24日,24歳の若さでこの世を去った。土地の風習から,誠之助はやむなく加藤家を離縁せねばならず,守之助は4歳であいついで両親を失い,以後,祖父の栄助,いわ夫婦が守之助を育てた。
 なお,たきの弟・芳松が加藤家の相続人となったので,守之助は明治20年10月15日,18歳のとき白井村の血脇家の相続人として入籍し,血脇姓を名乗ることになった。

血脇守之助