守之助は明治10年4月に我孫子の尋常小学校に入学,いたって几帳面な性格で一度の遅刻もなく,学業にも熱心で成績も抜群であったという。校長の杉山 英は守之助を見込んで特に目をかけ,高等学年になると夜間も預かって漢学を教えた。杉山の父・光源はかつて栄助の援助を受けて私塾を開いた縁があり,その報恩の意思が働いていたと思われる。守之助の天性の理解力と記憶力は抜群で,西南征討史略,十八史略,日本外史などを筆写し,その上達ぶりはとても10歳の少年とは思えなかったという。明治13年秋,守之助は全8級課程4年で修了するはずの小学校を3年半で卒業した。
 その後,禅学を少々かじり,明治14年夏から冬にかけては,父・誠之助の血縁にあたる中野治四郎のもとで日本外史の素読を始めている。中野宅で新聞の拾い読みを覚えた守之助は,12歳とは思えないほど社会の動きを敏感にとらえる少年に成長していった。栄助のもとに戻った守之助は“これからは英語の時代だ”といい,東京遊学を懇願した。
 明治14年12月22日,守之助は青年実業家・秋山広之助(誠之助の甥)に伴われて上京,25日,三田の慶応義塾童子寮に入寮した。英語では評判の高い慶応義塾であったが,授業は1日に1時間半,半時間はスペリング,1時間はリーディングなしの直訳では,横文字を日本語で読むにすぎず,実用的ではない。落胆した守之助は退寮し,翌15年4月から東京英学校(青山学院の前身)に通い始めた。このとき守之助は疥癬にかかって一時帰郷したが,明治16年春,再び上京し,神田猿楽町の明治英学校に入学,外塾に寄宿していた。しかし,ここも1年ほどで見切りをつけ,本郷の進文学舎に転学,ここで池田慎平(成彬)と出会い,意気投合している。
 明治17年12月には再び転学,今度は神田淡路町の共立学校(開成中学の前身)に入学した。後に池田も入学して,同じ寄宿舎で親交を深めている。池田の同室者が中條精一郎である。彼ら3人組は明治18年7月に大学予備門の入学試験を受けているが,全員みごと落第したという。守之助はその夏,麹町の講道館に通っている。休暇が明けると池田は,中條,守之助,伊藤忠太,千坂智次郎の5人で会を組織することを提案し,重遠会と名づけた。月1回,古海先生の指導で任意題で作文し,互いに批判しあう意見交換の会であった。
 その後,大成学館にしばらく籍をおき,明治19年10月に芝の明治学院に転校した。守之助17歳のことであった。翌20年7月,共立学校時代の友人・吉田三郎を三田の下宿屋・広瀬に訪ねると,吉田は強引に勧めて守之助を同宿させた。この下宿の学生たちはいささか政治かぶれで,松実喜代太,川関治恕,矢野文雄,藤田茂吉らは政談,政治論に花を咲かせていた。ここにいる間に,かつては沈黙は金を地でいっていた守之助も,おおいに感化を受けて開眼,自らの見識を雄弁に語るようになっていった。下宿の連中はそんな守之助を称して“ビスマルク”とあだ名したという。
 明治21年4月に慶応義塾別科2級に入学,池田慎平や吉田三郎らとの交際をいっそう親密にしていった。池田と守之助は炭屋の2階に同宿し,自炊生活を始めた。彼らは毎朝,銀座通りまでいって新聞の立ち見をし,池田は英語の個人教授を受け,守之助は新富町の袴田小太郎と誘いあわせて,英会話の練習をしながら慶応義塾に通うという切磋琢磨の青年時代であった。翌22年4月25日,20歳の守之助は慶応義塾を卒業,同期の卒業生は24名で,このなかに後年『高山紀齋小伝』の英訳を手伝うことになる宮森麻太郎がいた。
 このような東京遊学時代の交友関係は,守之助の人格形成に重要な役割を果たしている。また,後に歯科界の社会的接点を守之助が模索していくうえで大きな力となっている。

重遠会.前列左より伊藤忠太,中条精一郎,池田成彬,
後列左より血脇守之助,千坂智次郎
 

 


守之助17歳の頃