昭和20年4月13日の東京大空襲にも母校はかろうじて焼け残り,奥村校長はGHQのリジレー中佐とともに,戦後の歯科医学教育の確立に奔走していた。
 戦後の混乱は,たとえ守之助の手腕をもってしても,いかんともしがたい様相を呈していた。昭和20年12月24日,代々木上原の血脇宅で開かれた理事会では,守之助は大学昇格について慎重論を展開した。経済の疲弊と社会不安のなかで,大学昇格のための資金繰りをどうするのか。守之助は自らが陣頭指揮にあたれないことを嘆いていた。このとき,率先して大学昇格を期すべきであると説いたのは,本下謙次郎である。木下は慎重論を唱える守之助の本心を見抜いていたのである。
 昭和21年11月2日,大学設立の記念式典で挨拶をした守之助は,本炭車に揺られて帰宅した。付き添った佐藤義三は“しだいしだいに元気を失っていく先生の姿をみると不安でしょうがなかった”と述べている。
 

東京歯科大学設立記念式典で挨拶する血脇守之助(昭和21年11月2日)

 翌22年1月22日,長男・日出男宅でもらい湯をし,散歩にでて戻った守之助は,翌朝,身体のだるさを訴えている。午後,診察を受けて単なる風邪と診断されたものの,2月に入ると悪化し,2月半ばには肺炎に移行してしまった。驚いた奥村校長はリジレー中佐から貴重薬ペニシリンを取り寄せたりして看病にあたったが,20日頃から高熱をだして意識も薄れてきた。そして,24日午前10時45分,ソデ夫人と子供,孫の見守るなか“苦労させたな”と低い声でつぶやいて永遠の眠りについた。享年77歳であった。

 追記 血脇守之助先生については,『血脇守之助傳』(昭和54年発刊)に詳しく紹介されている。


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