昭和3年5月23日,野口英世がアクラにて逝去,満州,朝鮮視察の途上にあった守之助は奥村鶴吉が東京から発信したウナ電「ノグチハクシアフリカニテシス」を受け取った。かねてから血脇が気がかりにしていたこととはいえ,痛恨事であった。しかし,翌4年秋には水道橋にモダーンな校舎が完成し,大震災の被害から蘇った歯学の殿堂は燦々と輝いていた。  



水道橋新校舎(昭和4年10月30日竣工)

 
 守之助は本山ができたと喜び“明日に死すとも可なり”と,安堵の思いを表している。しかしこの頃,守之助には疲れがみえるようになっていた。昭和5年,還暦を迎えた守之助は病床にあったが,4月1日から始まった第8回日本医学会には初めて海外の著名な歯科医学者A.D.ブラックを招聘していたため,病躯をおして来賓の接待にあたった。
 ところで,守之助は大正末期から厚生省(内務省衛生局)の医療制度,医療行政に関連する各種審議会,調査委員会の有力なメンバーとして活躍していたが,なかでも昭和13年7月1日に発足した医薬制度調査会では,奥村鶴吉とともに心労を重ねている。
 昭和15年の創立50周年にあたっては,我孫子の生家跡に守之助の謝恩碑が建立された。式典に際し,70歳の好々爺となった守之助は昔を振り返り感慨に浸っている。高山紀齋はすでに亡く,川上元治郎も,榎本積―も先に旅立ったが,盟友・本下謙次郎は記念碑の撰を,また,池田成彬は題額を書いて功績をたたえた。
 昭和18年,守之助は校長の座を奥村にゆずり,自らは名誉校長となって引退した。