慶応義塾を卒業した守之助は,新進気鋭の政客・尾崎行雄や犬養 毅らに憧れ,新聞記者を目指したまではよかったが,全く手蔓がなかったので困惑していた。これをみかねた中條精一郎が父や叔父の本田龍助に頼みこみ,そのおかげで明治22年5月,守之助は東京新報社に入社した。守之助は末席の編集局員として横浜の英字新聞,ガゼット,ヘラルドなどの翻訳や地方紙の記事の切り抜き作業などをしていた。ところが入社4カ月目,ランプの釣り鉤で瞼に怪我,治癒に1カ月以上を要すると聞いて,社の迷惑を考慮して退社,帰省している。我孫子では一時,新聞販売店を始めたが3カ月で閉鎖,友人から話のあった新潟・三条町の米北教校の英語教師に就職することにした。月俸は25円であった。
 明治23年1月,21歳の守之助は赴任の途についた。米北教校は東本願寺の僧侶の機関学校で,三条町では唯一の中等教育を施す学校であった。氷雪の三条で,新進の英語教師・血脇守之助は大歓迎を受け,到着したその日から家庭教師の依頼を受けた。守之助は教育熱心で真面目に勤務し,英語のみならず,漢学の造詣をもって同校の漢文教科書の編集をも手がけている。また,教師として常に服装,容儀を正していたので,町の人は守之助のことを“華族さん”とよんでいた。
 明治24年夏,学校の布教講演で雄弁家の名声を得て三条に戻った守之助は,美髯をたくわえた若い医師と出会う。後年,刎頸の交わりを結ぶことになるドクトル田原 利である。田原はシンシナティのオハイオ医科大学(Medical College of Ohio)に学んだ新進気鋭の医師で,明治23年に帰国して茅場町に開業した。その後,金沢の知己の懇請により郷里で開業していたが,明治24年に三条病院長として,250円という破格の高給で赴任してきた逸材であった。守之助は村松屋の離れ座敷に下宿していたが,表通りに面した母屋が模様変えされて三条病院になっていた。夏の終わり頃,午後のお茶を楽しんでいた田原と,授業を終えて戻った守之助が挨拶をかわしたのが機縁となった。田原は守之助より10歳年長,守之助に酒を教えたのも,紅燈の巷に連れ出したのも彼であった。守之助は田原から米国の国情について熱心に話を聞き,また自宅2階に居候させてもらっていた。
 ところで教員生活も長くなると,これでよいのかという懐疑心にとりつかれるものである。学生のストライキをきっかけに守之助の心は揺れ動く。自問自答を繰り返しながら教壇に立ってはいたが,以前のような充実感はもてなかった。実業界に入りたいという希望も,一代で財を築いた三条町の広川貞吉翁に相談すると一蹴されてしまった。悶々と日をおくる守之助は,ある日,英字新聞ヘラルドの米国歯科医師の広告に目をとめた。歯科医についての知識はほとんどなかったが,歯科医は,独立して生計を営める職業であり“他から憐みを受けて金を得るがごとき不確実な危い世渡りをするは,男子として嫌気すべきである”という福沢先生の訓諭にもかなっていた。
 当時,歯科医は都会のごく一部に散在していたにすぎず,一般国民は,入れ歯師や駄弁を弄して居合抜きをしたり,いかがわしい歯磨きなどを売る歯抜きなど,香具師の類に属する者の施療を受けていた。しかし守之助は“混沌たる時代にその道に入って開拓の鍬を入れれば,前途は開かれるものだ”と考えたのである。英語を利用して歯科医学を学びたいという守之助の決意に,田原は賛意を表し,おおいに激励した。このとき田原は,米国で同宿した歯科医・片山敦彦が東京で開業しているからといって紹介している。明治26年2月に辞表を提出した守之助は,3月末,三条町を後にした。
 ドクトル田原 利は,若い守之助に経済的援助を続け,さまざまなアドバイスを与えたが,明治28年9月,高山歯科医学院の講師兼幹事に就任した守之助に,夏季出張診療を勧めたのも彼であった。会津若松に出張診療をした守之助は,田原の友人・ドクトル渡部 鼎に会い,そこで野口清作を知った。幼時,父母と別れた守之助にとって,田原は,あるいは兄,または父のような存在だったのかもしれない。田原は,昭和15年3月15日に82歳で亡くなるまで,東京歯科医学専門学校基金管理委員長を務めるなど,守之助のよき理解者であった。