上野駅に着いた守之助は,あり金をはたいて神田東松下町の小柴家に人力車で乗りつけた。しばらくやっかいになる予定の田原利夫人の実家である。  帝国ホテルで開かれた大石正巳(元朝鮮駐在弁理公使)民間有志歓迎会で志士気どりで一席ぶった帰り,守之助は本郷森川町の中條精一郎の下宿を訪ねた。ここで高山紀齋夫人の弟・森山松之助と出会う。中條は工科大学(帝国大学)建築科に学んでいて,森山はその同級生であった。重遠会の面々の消息を聞くと,池田はハーバード留学中,千坂は航海中,伊藤は不在とのことであった。守之助が歯科医への志望を話すと,森山は義兄の経営する高山歯科医学院と小幡英之助の学塾を推薦した。訪ねた片山は神戸に赴任して不在で,池田に紹介された伊沢信平も高山歯科医学院を推薦したので,守之助はその意向に従うことにした。

入学当時の血脇守之助(明治26年)
 


高山歯科医学院校舎
 
 明治26年4月8日,守之助はこのようにして高山歯科医学院に入学,三田四国町の下宿に落ち着いた。さっそく学資に困窮したが,田原が毎月6円を自主的に送金してくれたので,足りないぶんを借金でまかなうことにし,千葉の富豪・藤江謙吉郎に月6円の借金を申し込み,快諾を受けた。
 入学してすぐ,高山院長の海外講演の原稿(高山紀齋小伝)を宮森麻太郎の助けを借りて翻訳し,3カ月後に学生の身分で幹事に抜擢された守之助は,当時,講師を務めていた榎本積一,遠山椿吉,藤島太麻夫らと親交を結んでいった。守之助は英語の素養を発揮して講師たちに教えたので,年上の講師も学生も,重厚,悠揚迫らぬ態度で接する守之助を敬慕するようになっていった。
 2年ばかり勉学に励んだ守之助は,明治28年4月に学説および実地の試験を受け,みごと合格,7月16日付で歯科医師の免許を下付された。ちょっとまわり道をしたが,25歳の新進歯科医の誕生である。なお,このときの試験委員は高山紀齋と益田広岱で,受験者は105人,合格したのは16人という。
 守之助は,さっそく幹事として学院を歯科医界の指導的存在にすべく,意気投合した広瀬武郎とともに,卒業試験の実施,院友会の創設,『歯科医学叢談』の創刊など,学院の改革に取り組んでいった。