日本医事週報社社長・川上元治郎と,米国から帰国したばかりの川上昌保ドクトルは,清国留学生の受け入れを提案したが,これに対して清国駐日公使の祐 庚は,先に日本から医師を派遣して清国の国民性をつかんだほうがよいという意見を述べたため,豪胆で政治的手腕のある守之助に白羽の矢を立て,清田への出張歯科診療を依頼した。守之助には漢学の素養もあり,英語も堪能であることを見込んだからである。
 後事を石塚三郎や野口英世に託し,歯科医会の常議員も辞職して,守之助は日本の歯科医療を清国の一角に扶植するため,全力をあげる心意気であった。明治31年7月17日に出発,芝罘(ちいふう),天津,北京,上海と巡り,翌32年7月10日に帰国しているが,この間,外国人向けの英文広告,漢文広告を配布し,各地で予想外の盛況を収めている。
 また,芝罘は当時,清国第一の保養地で,欧米各国の領事館があり,国際情勢を知るにきわめて重要な土地であった。守之助は患者から聞いた重要な事項を関係当局に通 報しているが,なかでも東京時事新報の福沢社長に送った密海州の英国租借地の件は,特ダネ記事となっている。かつて新聞記者に憧れた守之助のジャーナリストとしての素質が頭をもたげたのであろう。
 なお,渡清にあたって物心両面から援助したのは榎本積一であった。榎本は,当時唯一の研究会であった歯科交詢会に入会を希望したものの,会員は小幡門下に限られていたため,明治21年7月に自ら主宰して歯科談話会を発足させている。後に高山紀齋の教えを請い,明治23年11月に歯科研究会と改称,開業の傍ら,明治24年3月から高山歯科医学院の講師を務めていた。
 守之助と榎本の邂逅は明治26年,学生と講師という立場で始まったが,幹事に抜擢された守之助は榎本に英語を教えるなど,親交を深めていった。守之助を動とするなら,榎本は静,互いに一目おいた唇歯輔車の関係であった。その後,榎本は講師を退任したが,明治39年からの臨床実習では指導医として,守之助への協力を惜しまなかった。
 榎本は歯科医会を創立し,伊沢道盛を説き伏せて主唱者とし,小幡,高山,渡辺良斎の4者同盟をつくるなど,歯科界の団結を図るとともに,歯科医師法の制定・改正運動,歯科医師会の設立などを推進し,守之助とともに東奔西走していた。
 日本聯合歯科医師会の会長を退いた榎本は,大正8年11月28日,心臓発作により死去,53歳という若さであった。守之助は慌てふためいて駆けつけたものの“事すでに終わりて万斛(ばんごく)の怨み綿々として尽きざることと相なった。嗚呼悲し”と嘆いた。榎本の遺言状には,守之助に対する感謝の辞が綴られており,守之助は流れ落ちる涙をどうすることもできなかったという。榎本もまた,守之助のよき盟友であった。なお,榎本の家督は養嗣子の市橋美彦(後に榎本)に継承された。


血脇歯科医院(上階)


清国天津の血脇守之助(中央)
(明治31年)