幹事に抜擢されて以来,守之助は学院の運営に力を注ぐと同時に,機会あるごとに欧米の歯科界と連絡を図り,文献を収集して研究資料とし,わが国歯科界の趨勢を外国の雑誌に紹介した。この努力が実って,明治28年当時,学院の卒業生は米国の歯科大学の3年級に編入できることになり,歯科界を驚かせた。
 また,医術開業試験受験者の履歴保証は内外科医2名以上となっていたが,歯科の受験者については歯科の開業医とすべきことを,明治31年5月,日本歯科医界代表として内務大臣に建議した。その結果,その秋から普通医の保証のみでは出願を受理しないことになった。
 このように歯科界で頭角を現してきた守之助ではあったが,学院の幹事として悠然とした日常をおくるつもりはなかった。清国巡遊中から企図していた新天地・台湾への渡航を決意し,高山院長に辞表を提出した。

当時の血脇守之助
 
 守之助の渡台に賛成し,助言したのは川上元治郎で,“一学院の経営などはとるに足らぬ,男子すべからく新天地に雄飛すべし”と力説した。当時,台湾総督府の民政長官は後藤新平であり,守之助は川上や遠山椿吉を通じて後藤とも懇意の間柄であった。
 守之助の意図には反対する者が多く,特に歯科関係者は“中央帝都にあって才腕をふるうべきである。混沌の歯科界に光明を与え,錯綜する難問を解決するには君をおいてほかに人なし”として慰留した。また,院長の高山も“血脇が校務の面倒をみないならば,不面目ながら廃校のほかはない”と迫ったため,守之助は辞表を撤回した。
 その後,学院の経営に行き詰まった高山紀齋は藤島太麻夫と守之助を偕楽園によび,守之助に学院を継承させることを承諾させた。
 守之助の学院継承には最大級の賛辞が贈られたが,最も貧乏くじを引いたのは,ほかならぬ守之助自身であった。徒手空拳の格闘はこのときから始まった。講師陣と後援者はなんとか確保したものの,開校資金200円の調達は思うに任せなかった。当初,小学校時代の同級生で料亭・今文を経営する森 和吉を頼ったが,今文に迷惑がかかることを恐れた守之助はこれを御破算にした。悩んだあげく,西小川町の金融業から3カ月の期限で300円を借用,利子を先払いして200円を懐にした。
 明治33年2月1日,神田小川町の東京顕微鏡院内に東京歯科医学院が誕生した。生理学講師の遠山椿吉は,院の夜間使用を無料で提供すると申し入れたが,守之助は強いて10円の家賃を払った。また,2月12日に神田美土代町の青年会館で開催された開校式には,来賓として各界名士200名を招待した。友人の迷惑を恐れた繊細,借金の豪放磊落,来賓200名の豪華絢爛,守之助いまだ30歳である。