守之助は,清国帰国直後の明治32年7月19日,広瀬武郎の妹・ソデと結婚した。守之助29歳,ソデ22歳であった。2人は三田松坂町に家賃7円の新居を借り,新生活をスタートさせた。ソデは端麗で温順,同情心に富み,慎み深い女性であった。守之助は,多難な前途を支えてくれる好伴侶を得たのであった。この頃の食客には,明治31年6月に卒業した奥村鶴吉のほか,阪 秀夫(後に大連汽船専務),中村重敬がいた。
 翌年,学院を継承した守之助は三崎町に家賃28円の大きい長屋をみつけ,3月に血脇歯科診療所を開設,松坂町から食客ともども引っ越した。7月には清から帰国した野口が転がりこみ,まるで梁山泊の様相を呈していた。自宅には奥村,野口,阪,渡辺,宮坂,高石が住みつき,卒業したばかりの深沢(早川)可美良も,治療所の助手として血脇家の食客となった。診療所のおかげで経済的にはいくらか恵まれてきたが,みな質素,倹約に努め,メザシ,塩鮭に舌鼓をうち,たまの肉鍋には競って鍋底をつつき,一片の肉塊をとるのに一同大騒ぎだったという。
 

血脇守之助を囲んで.最前列の子供は中央が道夫,その右が靖夫,前列左から4人目が日出男,守之助,そで夫人,政子,英子,左側の四角内が芳雄.2列目右から3人目が奥村鶴吉夫人,8人目が佐藤義三,3列目右から3人目が奥村鶴吉,1人おいて遠藤至六郎,後列左から3人目が石塚三郎,花澤 鼎(大正10年頃)

 食客の面倒を一手に引き受けたソデ夫人の苦労もたいへんなものであったと思われる。 明治33年6月24日には長女のキヨが誕生したが,5歳になったばかりの37年7月に病死した。明治35年6月19日には長男の日出男が誕生,学院の経営にやっと曙光がみえてきた頃であった。その後,守之助とソデの間には明治37年1月21日に次男・芳雄,39年1月24日に次女・英子,41年3月15日に三女・政子,43年3月25日に三男・三郎(9歳で死亡)が誕生した。また,明治43年5月に豊多摩郡代々幡町大字代々木谷91番地に転居してからは,大正4年9月3日に四男の道夫,大正6年2月19日に五男・靖夫が誕生した。
 ところで,三崎町の血脇歯科診療所に隣接する平岡邸の買い取りの際の守之助の錬金術はみごとであった。価格3,000円のうち,手付金1,000円は介立社の社長・川関治恕から借用したが,彼は共立学校時代の友人・吉田三郎とともに,守之助に“ビスマルク”のあだ名をつけた人物である。また,残りの2,000円を出したのは今文の森 和吉で,このときは簡単に貸してくれた。川関とともに登記所で4,700円の抵当権を設定,2人に3,000円を返済し,1,700円を手にした。そして,学院,診療所,住宅とも引っ越し,門長屋は賃貸にして叔父の秋山広之助と二六新報の記者・工藤鉄男に貸した。なお,この頃,同居人に水野寛爾が加わった。