開校直後のことと思われるが,守之助は東京専門学校(後の早稲田大学)の会計監督・市島謙吉を神田仲猿楽町の自宅に訪ねた。彼は石塚三郎の紹介者であり,読売新聞主筆時代には石塚を寄宿させている。学校の経営難をしばしば突破して,その才腕をうたわれていた市島に,守之助は学校経営についての意見を求めたのである。
 市島は私立学校の魅力はまず人にありと説き,優れた講師陣を集め,彼らを奮起させるため時間給は1円くらいとすること,また新進と大家の別をなくして同一給とするなど,具体策を提案している。さらに,収容能力に限りのある在学生からの収入のみを財源とするのではなく,院外生を募集し,講義録の売上げで財政を補助し,各地の好学の士の要望に応えると同時に,学校も恩恵を受けるという案を出している。
 高山歯科医学院時代の院外生募集と講義録発行の企ては成功とはいえなかったが,その後10年を経て,採算がとれると踏んだ守之助は,講義録の発行を自ら行うこととし,助手として奥村鶴吉を登用した。こうして明治33年3月,『歯科学報』に最初の院外生募集(通 算2回目)広告が掲載されたのであった。
 また守之助は,明治34年に広瀬武郎を第1回海外留学生として渡米させている。翌35年には花澤 鼎が卒業,37年には遠藤至六郎が卒業し,同年,学院前の道路拡張に絡んで生まれた余剰金のうち2,000円は,迷うことなく奥村鶴吉の米国留学に投資した。39年に帰国した奥村の活躍によって,学院の教育内容は飛躍的に充実していった。奥村は守之助の右腕であった。その後,大正2年には花澤 鼎を渡欧させ,学術研究の振興を図っている。
 さらに,明治38年からは校舎の増改築に着手したが,設計は親友の森山松之助に依頼した。翌39年4月8日の新築落成式には,榎本積一,富安 晋,伊沢信平,石原 久などの歯科界の名士,遠山椿吉,川上元治郎,荒木寅三郎など医界の名士,鈴木萬次郎代議士,石黒忠悳男爵,後藤新平男爵など,政官界の名士が参列した。開校式と同様,華々しい式典を開催して名実ともに面 目を一新した学院は,斯界に感動をもって歓迎された。特に榎本積一,富安 晋,一井正典,佐藤運雄,河村利次郎など20名は,守之助の義挙に祝意を表すべく,醵金を全国の歯科医に呼びかけ,寄付金は5月末までに1,500円に上った。
 


治療中の血脇守之助
 


明治39年に落成した東京歯科医学院校舎
(2階建76坪,水道橋から)
 
 明治43年1月31日,守之助は文部大臣から出頭を命ぜられ,2月1日付で学校指定扱いの件が許可されたと通告された。東京歯科医学院の開校から10年目にして,歯科医師法第1条第1号による専門学校として認められたのである。なお吉報は重なり,翌44年には野口英世の論文が京都帝国大学を通過し,野口に医学博士の学位記が授与された。さらに,大正4年7月5日には野口に帝国学士院恩賜賞が授与され,守之助が代理としてこれを受けとった。