大正9年,財団法人の設立を果たした守之助は50歳になっていた。4月12日には創立30周年の記念式典が開催され,学校中が喜びに湧いた。6月6日,教職員は守之助夫妻を池上の曙楼に招待し,その労をねぎらった。守之助の肩の荷もいくらか下りたことであろう。  大正11年の欧米視察に際しては,守之助はその体験や感想を実に詳細なレポートとして残している。秘書役の遠藤至六郎もこれには顔負けし,“精力絶倫なる先生はドシドシと各地の模様をご運信遊ばさるる有様にて少なからず恐縮つかまつり候”と述べている。このとき守之助は52歳,遠藤は38歳であった。
 遠藤は,欧米の歯科界は自分たちをどのように迎えてくれるのか,門前払いをくうのではないかと心配し,自らを“通訳兼鞄持ち”と称して不安を表しているが,守之助は余裕綽々,時に豪胆でさえあった。遠藤は“先生の日本語の演説は何度も耳にしてきたが,英語の演説などいまだかつて聞いたことがなかった。一体どうされるのか私にとって心痛の種であった。先生にお尋ねすると‘俺の英語は35年前のオールドファッションさ’と笑っておられるのでますます心許なく思っていた。しかし,3月7日パリ歯科医学会の例会に招かれ,名誉会員に推薦されたとき,先生は鷹揚に立ち上がられ,初めて英語の演説を試みられた。私はあまりにも流暢に話されるのでビックリすると同時に,普通のフランス人の英語力ではとてもわかるまいとさえ思った”と記している。
 

血脇ホワイトハウスにハーディング大統領を表敬訪問した際の記念写真.
左より野口英世,血脇守之助,遠藤至六郎(ワシントンポスト紙,1922.5.26)

 ベルリンでも通訳を断って英語のスピーチ,懇談をやってのけ,平然としていた守之助であるが,一方では社交上の細心の注意をはらっていたことがわかる。たとえば,マルセーユに入港するとただちにカイゼル髭をスクウェア型に変えたのは,旧敵国ドイツ皇帝の象徴を見せて,フランス国民に悪感情を起こさせる愚を避けたのである。
 しかし,守之助は日本歯科界の代表であるという矜持を崩してはいない。ベルリンでは,あらかじめ木曜日と決められた血脇先生歓迎晩餐会を,金曜日に変更したいという一方的な申し入れに対して,遠藤は差し支えないとしたものの,守之助は憤然として“駄目だ,断わってしまえ”とはねつけている。守之助はいう。“遠藤君,日程上の問題ではないのだ。私は日本の歯科界を代表する血脇である。向こうの勝手で,やれ木曜日だ,金曜日だと,そんなベラボーな申し分にハイ左様でございますかというわけにはいかぬ。日程がありますからと断ってくれ給え”。守之助の決意がただならぬものであったことをうかがわせるエピソードである。
 またロサンゼルスの全米歯科医師大会の際にも,守之助の決然とした態度をうかがうことができる。大会事務局は,血脇らが持参した多数の蝋模型,ポスターなどの展示場所の割付が適切とはいえなかった。これに腹をたてた守之助は“礼儀をわきまえぬならば,血脇は大会の賓客としての待遇を謝絶して即刻帰国の途につく”と大会幹部に追った。展示場を変更した日本の出品会場には参観者が密集し,大会随一の呼び物となった。遠藤が“当時を追想すると涙がでるほど嬉しく思う”と記すほどであった。
 この欧米各国の視察旅行の間,守之助は日本歯科界の代表としての役割を果たした。日仏交歓,日独交歓の写真には,威風堂々たる守之助の姿をみることができる。しかし,守之助個人にとって思い出深いのは,やはり野田英世との再会であった。ホワイトハウスにハーディング大統領を表敬訪問した際の野口,血脇,遠藤の写真には,野口の慈父としての守之助の姿をみることができる。


日仏交歓(大正11年3月8日,パリ・グランドホテル)
 
日独交歓(大正11年4月2日,ベルリン・カイザァホッファホテル)