大正12年,花澤 鼎が慶応義塾大学から医学博士の学位 を授与され,歯科医の地位もやっと認められだした。外遊途中で別れ,そのまま留学した遠藤も帰国する。守之助にとっては,長年の苦労が少しずつむくわれ,心穏やかな年になるはずであった。ところが,9月1日の関東大震災はすべてを灰燼に帰してしまった。守之助は校長として,経営者として辛い緊縮財政を実施し,内外の救援をたよりに学校の再建に乗りだしていった。
 

廃墟のなかの医院。右端は9坪のバラック事務所(大正12年)
 翌13年,歯科教育に対する永年の功労が認められ,守之助は勲五等瑞宝章を授与された。奥村鶴吉の言葉を借りれば,血脇守之助は当時において歯科界崇敬の的であり,その後,時代の経過とともに,ますます別 格化される傾向にあったが,叙勲,栄誉に臨んでの本心の吐露をみると,きわめて平民的であり,福沢諭吉の訓えに忠実な使徒であったことがわかる。

名誉法学博士の学位 記を受ける血脇守之助
 さらに翌14年6月10日,守之助はシカゴのロヨラ大学から名誉法学博士の学位 記を贈られた。これを推進したのは,関東大震災の救援に尽力した米国歯科医師会会長のC.N.ジョンソンであった。彼は守之助に授与を知らせる手紙のなかで“小生の全生涯を通 じ今回の学位授与ほど嬉しいことはなかったと申し上げても過言ではありません”とまで述べている。6月25日,帝国ホテルにおいて開催された学位 記授与の式典では,E.A.バンクロフト米国大使が,ロヨラ大学総長代理として学位 記を授与した。600人を超える参列者のなかには,高山紀齋,金杉英五郎,後藤新平,富安 晋,米山梅吉,北島多一など,守之助の師,知己,盟友が顔をそろえていた。
 大正15年に日本歯科医師会が設立され,守之助は初代会長に就任し,以後21年にわたり歯科界の運営に腐心した。昭和2年暮れには関東州(満州)長官として赴任した木下謙次郎理事を送って,木下の郷里・大分まで同行した。翌3年には書記の高津 弌を伴って旅順,大連,奉天,撫順,安東の視察に旅立った。