開業医の免許を受けたものの、臨床家としての光明を見いだせなかった野口は、その頃から医学者を目標にすべく決意を固めていった。彼の学問的関心は、隆盛を誇っていた細菌学へ向かい、さっそく順天堂の上司や血脇を介して、明治31年(1898)4月、助手として北里柴三郎博士率いる伝染病研究所への入所を果たした。野口の語学力は高く評価され、外国の図書・論文の整理、抄録、雑誌の編集などを任された。明治32年(1899)4月、米国病理学者シモン・フレキスナー博士が来日、英世はその案内・通訳を務めた。これがアメリカ留学への運命的出会いになった。

伝染病研究所 明治27年(1894)に新築完成
 
 

横浜海港検疫所

海港検疫官補制服姿の野口英世

 明治32年(1899)5月、横浜の海港検疫所に赴任した野口英世は、入港した船にペスト患者2人がいることを発見した。その功績が認められて、10月にはペスト流行の兆しのみえた清国・牛荘の国際予防委員会中央医院に派遣されることとなった。出発に際して挨拶に来た野口の憐れな夏服姿を見て、血脇は部屋に敷いてあった赤毛布を与え、「世の中は五分の真味に二分侠気あとの三分は茶目でくらせよ」と歌を作り励ましたという。


掛け軸

中国高官とともに