血脇守之助
 血脇守之助は、高山紀齋より高山歯科医学院を継承して、明治33年(1900)2月1日神田小川町に東京歯科医学院を開校、その後神田三崎町に学院を移転した(現水道橋校舎)。
 明治33年12月5日に野口英世は渡米するが、東京歯科医学院開校当初は、学院の講師として病理学・解剖学・薬物学を講義していた。牛荘から帰国した野口は講師として学院に戻り、血脇家の食客として、奥村鶴吉らと寝食をともにしている。

移転時の東京歯科医学院

新築された東京歯科医学院
(明治39年4月)
 
 
 野口はあれこれと留学の方途を画策していたが、どれもうまくいかず途方に暮れていた。結局、血脇のつてにより、300円を渡航費用として用立ててもらった。ところが、出発の直前に横浜の料亭で送別会を行い、一夜にして渡航費用のほとんどを使い果たしてしまった。翌日、謝りに来た野口から話を聞いた血脇は、さすがに呆れて言葉を失ったと言う。しかし、野口の将来を案じた血脇は、とうとう高利貸しから金を借りて、野口の渡航費用にあてた。野口は感激の涙を流して喜んだが、血脇もさすがに懲りたようで、この時は横浜港から出航するアメリカ丸の甲板上で切符を手渡したという。明治33年(1900)12月5日のことであった。血脇は、後年、長男が成人に達した時、「お前も一人前の年になったから、女に惚れてもよいが、男に惚れるなよ」と諭したという。

フレキスナー博士と野口英世


ロックフェラー研究所時代の野口英世


渡米した直後 フィラデルフィアでの野口英世