明治2年4月,陸軍御用掛の任務遂行のため岡山に逗留していた岡田摂蔵は,藩士の子弟から10名を選び,英語教授を施している。岡田は熊本の出身で,早くから緒方洪庵の適塾に学び,後に慶応義塾の学頭を務め,慶応元年には遣欧使節のひとりとして渡欧した人物である。  高山紀齋はこの10人のうちのひとりに選ばれ,もちまえの情熱をもって勉励刻苦し,半年後には藩の英学教授補の任にあたっている。新しい時代を迎え,自らの進路を模索していた紀齋にとって,岡田との出会いは新たな意欲をわきたたせる契機となった。岡田の勧めもあって,紀齋は明治2年11月に上京,その後,福沢諭吉が主宰する慶応義塾への入社を果 たすことになる。当時,慶応義塾は民間の最高学府であった。
 福沢の私塾である慶応義塾の門人帳ともいうべき「慶応義塾入社帳」の第I巻には高山紀齋の記録がある(図1 慶應義塾の入社帳)。慶応義塾への入社は明治3年11月24日,上京からちょうど1年後,数え年21歳であった。姓名は幼名のまま高山彌太郎とある。主人(領主)の欄には“岡山藩知事”とあり,紀齋の上京が藩命,推薦によるものであることをうかがわせる。
 紀齋が入社した明治3年11月頃は,チフスから回復した福沢が塾舎の移転に奔走していた時期にあたる。築地の新銭座にあった塾舎は,後に拡張されたとはいうものの,なお手狭であった。慶応義塾は翌年3月,芝三田の旧島原藩邸(現在地)に移転している。この頃の福沢は働き盛りの37歳,新しい著作に向けて,心身ともに充実した時期にあった。また,新しい時代にふさわしい教育方針をかかげ,これに基づいたカリキュラムを編成して,その実践をうたっており,慶応義塾は発展期を迎えつつあった。
 『慶応義塾新議』(明治3年8月)には教育方針の大綱がみられるが,ここでは特に初学の人々に対して“日本国中の人,商工農士の差別 なく,洋学に志あらん者は来り学ぶべし”とよびかけ,洋学,具体的には英学修業を唱えている。このなかの「義塾読書の順序」から,英学修業の具体例をみてみよう。最初に西洋のイロハ,いわばABCのアルファベットに始まる英語入門の手ほどきがあり,ついで物理学の初歩,あるいは文法書を3カ月間かけて読む。さらに地理書または窮理書を6カ月かけて読み,最後に歴史書に6カ月をかけて,素読課程を終了するという方針になっている。このように,慶応義塾における教育の中心は英学習得にあり,その教授法は,主に独自の体系による素読を重視するものであった。
 慶応義塾において,紀齋と福沢の間にどの程度の個人的な接触があったかは不明である。また,学問的あるいは思想的,精神的にどのような影響を受けたかは,具体的にはわからない。しかし,慶応義塾における紀齋が,少なくとも福沢のいう“実学”尊重の思想を学んだことは疑いのないところであろう。