明治11年2月,7年間にわたる米国滞在を終え,高山紀齋は米国歯科医師の免許を土産に帰国した。そして,最新の洋方歯科技術による歯科診療を日本で開始すべく,同年6月,京橋区銀座3丁目14番地第3戸に,27坪余りの高山歯科診療所を開設した(明治13年に3丁目17番地と改称。土地は京橋区八官町・小林時計店の所有地)。
 この時期は,わが国の近代歯科医学の黎明期にあたる。それゆえ,米国の最新の歯科医術を修得した紀齋の帰国は,旧態然たるわが国の歯科診療に対して大きな刺激となったことは想像にかたくない。しかし,明治11年に下付された日本の医師免許は,歯科ではなく“内外科”であった(図3 高山紀齋の医師免許)。
 当時の歯科医療は,いまだ口中科あるいは入歯師と称される職人的な人々によって担われていた。また,歯科医の何たるかは一般 には理解されておらず,まして洋方歯科技術についての知識は皆無に近い状況である。そんななかで洋方歯科治療を行っていたのは,小幡英之助,伊沢道盛,長谷川 保など数名である。小幡は,横浜の居留地で主に外国人を対象に歯科診療を実施していたエリオットに学んだ門下生である。
 小幡英之助は福沢諭吉と同郷であり,門下生として慶応義塾に学んだこともある。彼は医師取締法に従って実施された医師試験に際して,わが国では初めて歯科医として受験することを希望し,そして合格した。免許は明治8年10月2日,医籍第4号,しかも歯科専門医第1号,つまり,わが国の歯科医第1号である。高山紀齋が開業した明治11年,小幡はすでに京橋釆女町の隈川宗悦の2階に,洋方歯科医として開業していた。
 文部省に医務課が設置されたのは明治5年,同7年には医制が発布されているが,明治政府は歯科の名称を認めておらず,東京,京都,大阪の3府に施行した医師の免許制度には,依然として“口中科”とある。明治8年に医事衛生の管轄が文部省から内務省に移り,小幡英之助は歯科医として認められているが,歯科という名称が現れるのは明治12年に制定された医師試験規則であり,ここで初めて口中科は歯科に変わっている。
 政府にとっても,明治10年代に入ると国民の健康とその前提となる衛生思想の普及に無関心ではいられなかった。明治12年にコレラが流行したことも,そうした気運を盛りあげるきっかけとなっている。公衆衛生の普及・完備は,文明国家のひとつの条件として認識されつつあった時期である。
 銀座に開業した紀齋も,臨床家として日々の診療を施すだけでなく,一般 国民への歯科衛生思想の普及に尽力することになる。彼は欧米の歯科医学書の抄訳・編述に力を注ぎ,明治14年には処女作『保歯新論』を,また明治15年には一般 大衆向けの『歯の養生』を著している。後者は歯に対する一般の関心を高めるため,口中の衛生管理の必要性をわかりやすく説いたものである。また『保歯新論』は菊判の手刷木版で,これには当時,医学界の重鎮であった石黒忠悳の序文が寄せられている。