高山歯科医学院を創設した紀齋は,昼は銀座の診療所で診察にあたり,夜は自宅で欧米の歯科医学書をひもとき,あるいは最新の海外雑誌に目を通し,著作に筆を走らせる日々であった。米国の歯科技術を修得した紀齋は,常に欧米の歯科界に関心を抱き,最新かつ先進的な医療知識と治療技術の移入に努めている。そこには日本を代表する歯科医としての自信と自負があった。
 日本に歯科医学を普及させるためには,紀齋自身の名声をさらに高める必要があった。内国勧業博覧会審査官に就任した紀齋は,明治28年7月に京都で開催された第4回国内国勧業博覧会で,自ら『高山歯科医学院の過去及現在の状況』を発表し,有功賞を受賞している。なお,明治23年6月には従六位,後に正六位に叙せられている。
 さらに明治26年6月には,政府より臨時博覧会評議員のひとりに任命され,シカゴに派遣されている。この博覧会には英文の『高山歯科医学院の過去及現在の状況』という小冊子を提出,その功績が認められて,米国政府と米国歯科医学会から賞牌が授与されている。また,同時に開催されていた万国歯科医学会では,名誉会頭として推薦され,日本を代表して参列,請われて演説した。この大会終了後,任を果たした紀齋は恩師バンデンボルグを訪ね,謝恩の意を伝えるとともに旧交を温めている。帰途は米国各地,そして英国,ドイツ,フランスなど欧州各国の歯科事情を視察して12月に帰国した。なお,留守中の学院運営はすでにこの世界で頭角を現していた血脇が抜擢され,切りまわすことになった。
 明治29年9月18日,高山紀齋は勲六等単光旭日章の栄誉に輝く。大日本教育会会員をはじめ日本体育会名誉賛助員,日本尚兵義社特別社員,日本赤十字社特別社員などの会員に推挙されていた紀齋は,自身もそれを名誉なことと好んで受けている。これらを契機にして,紀齋の歯科教育界での名声は磐石のものとなり,明治33年にはパリで開催された万国歯科医学会において名誉会頭に選出されている。
 しかし,こうした華々しい活躍とは裏腹に,高山歯科医学院の経営ははかばかしくなく,経済的には私財を投入することでしのいでいた。開業医,侍医,そして教育者としての学院経営という三役をこなすことは,几帳面で完璧主義者の紀齋にとっては,無理な部分があったのであろう。明治33年,すわなち学院開校10年目にして,紀齋は高山歯科医学院を門下生の血脇守之助に譲渡することを決意している。この譲渡の詳しい経緯については不明である。明治29年に血脇を介して強引に学僕となった野口英世の示唆があったともいわれているが,明らかではない。
 ところで,高山紀齋はつねに歯科界の結束に努力をはらっていた。明治26年には高山紀齋,伊沢道盛,小幡英之助の3人が発起人となって歯科医の団結を呼びかけ,東京府下在住の開業歯科医44名のうち35名の出席を得て,歯科医会の結成・準備にとりかかった。同年6月14日には,京橋区宗十郎町の大日本私立衛生会において,歯科医会の発足を実現,事務所を京橋区新肴町の成医会内においている。
 その後,名古屋,大阪などにも同様の歯科医会が組織され,明治29年11月28日には総会を開き,日本歯科医会と改称した。そして明治35年1月20日には,築地精養軒において臨時総会を開き,組織を整備して初代会長に紀齋が就任した(明治39年辞任)。また,このとき付設機関として歯科医学会を発会させている。さらに,明治36年11月27日,臨時総会を開催し,日本歯科医会を発展的に解散して大日本歯科医会(日本歯科医師会の前身)を創立し,全国組織に規模を拡大した。こうした紀齋の功績を讃え,門下・知友の醵金によって銅像(朝倉文夫作)がつくられ,明治43年12月12日に東京歯科医学専門学校の校庭に建立,盛大に除幕式が挙行されている。参加者には銅像のレリーフが配布された(図4 銅像のレリーフ)。式後,紀齋,令夫人を囲んで知己,朋友,弟子たちと撮影した写真が残っている(図5 高山紀齋銅像除幕式の際の記念写真. 前列中央に高山紀齋と令夫人,左から2人目が榎本積一,右から4人目が遠山椿吉,2列目中央に血脇守之助,右から2人目が早川可美良,後列右から3人目が奥村鶴吉,6人目が秋元直義(秋元信克氏所蔵))。