明治5年12月,22歳の高山紀齋は新世界への抱負と不安を胸に,横浜から単身,渡米の途についた。西海岸・サンフランシスコ市に着いた紀齋は,まずプリンス氏の学舎に入った。米国では大陸横断鉄道が完成し,当時のサンフランシスコは西部フロンティアへの入口であり,前進基地であった。町にはアメリカンドリームを追い求める人々があふれていた。しかし,渡米当初の紀齋がここで何を学んだかはつまびらかではない。
 近代社会としての豊かな物質文明を築いた米国は,この頃いわば資本主義の発展途上にあった。その精神文化は自律的な実際主義を基盤とし,これを重んじる風潮にあった。紀齋は,福沢の慶応義塾で学んできた実学精神にあい通 じるものを,サンフランシスコの地で感知したことであろう。
 学舎に通っていた紀齋は,ある日,突然激しい歯痛におそわれる。彼はこのとき初めて西洋歯科医学に接するのである。診察を受けた歯科医こそ,その後,師として仰ぐことになるバンデンボルグ(Dr.Daniel Van Denburgh。図2)である。治療のために通院していた紀齋はバンデンボルグと親交を重ね,ついに彼の医院で下僕として働くようになる。米国で新しい職業を模索,開拓しようとしていた紀齋にとって,バンデンボルグとの出会いは,生活を支える糧を得るというだけでなく,その後の紀齋の運命を決定づけることになった。  サンフランシスコ市の住民録ともいうべき『The San Francisco Directory』(1874年版:明治17年)によれば,Dentistバンデンボルグの住所は229 Geary Streetとある。ここはサンフランシスコの中心街・ユニオンスクエアに面 した繁華街である。また1878年版では,オフィスは先と同じであるが,住居は中心街の西方1626 Turk Streetとなっている。おそらく,紀齋はユニオンスクエアのオフィスに寝泊りして,歯科医術の修得に努めたものと思われる。
 師のバンデンボルグは,サンフランシスコ市でも一流の歯科医であり,最新の歯科診療を行っていた。また,単に歯科技術に優れているだけでなく,豊かな人格と教養,学識をそなえた紳士であったという。歯科医とその助手として,日々の診療活動のなかで2人の間に信頼関係が築かれていったのであろう。バンデンボルグは,自分の意図するところを解して俊敏,手際よく,正確に対応する紀齋に好感をもち,快く医術の伝授に努めている。紀齋もまた,恩師の要求に忠実に応えるだけの器量 と熱意をもちあわせていたのであった。
 ところで米国には,メリーランド州に世界最初の歯科専門学校といえるボルチモア歯科医学校(Baltimore College of Dental Surgery)が,紀齋の渡米より30年以上前の1839年に設立されており,科学的に系統的な歯科医学教育が行われていた。創立者は,フィラデルフィア大学歯科部教授を務めたことのあるハイデン(Horace H.Haydon)である。米国歯科界の実情を察知した紀齋は,わが国における歯科医学教育の必要性と将来性を強く認識したことであろう。そして同時に,歯科医になることを自らに課せられた天職と悟ったのではなかろうか。それゆえ,艱難辛苦の日々を送りながら,紀齋は当時の先進的な歯科医療技術の修得に努めている。このような努力はついに実り,紀齋は米国の歯科医術開業試験に合格,歯科医師の免許を取得することができた。