明治14年11月,高山紀齋は,元老院大書記官および太政官御用掛を兼務する森山 茂の 娘・愛子(元治元年8月7日生)と結婚している。当時,紀齋は芝区伊皿子町75番地に居を構え,厳格な父母と同居していた。17歳の若い嫁・愛子にとって,なにかと苦労が多かったものと思われる。3年後の明治17年4月に長女の壽子が,19年8月には長男の基が誕生している。
 明治17年9月,紀齋は東京医術開業試験委員に任命され,翌年4月には実際の試験に携わった。この歯科専任委員の任は,明治33年までの15年間にわたっている。また,明治18年には,歯科界を代表して大日本私立衛生会医学科審事委員の任についている。これは政府の公衆衛生行政の一環であったが,医学界とは別 に歯科の代表として紀齋が選ばれたことは,彼の実力が評価されたというだけではなく,職業としての歯科の社会的認知につながるものである。歯科については,小幡,高山をはじめとする米国流が先行していたが,当時,医学および医療技術に関しては,官学の東京医科大学校(東京大学医学部)が中心になっていた。東大の卒業者には無試験で開業免許が与えられ,それ以外の者は医術開業試験を受験,合格してはじめて開業を許されたのである。官立の医学はドイツ流が主であり,卒業生の多くもドイツ留学の経験をもっていた。
 そんな状況のなかで,明治19年,紀齋は小松宮彰仁親王を拝察する機会を得た。小松宮は東伏見宮家の出身で,明治4年に皇族として初めて渡英し,時のビクトリア女王に会見しており,開明的な皇族のひとりといわれていた。小松宮はまた陸軍中将・近衛都督の地位 にあり,西南戦争に際しては,博愛社(日本赤十字社の前身)の総裁を務めている。そうしたキャリアゆえに,小松宮は公衆衛生の普及にはことのほか関心が強かったという。
 このような縁があって,紀齋は明治20年7月30日付で侍医局勤務(後に侍医寮御用掛)を仰せつけられている。皇后,東宮(後の大正天皇),第5皇女久宮など,皇族関係者を拝察した紀齋は,その厳粛,適正な診察を高く評価されている。特に,病弱な東宮の拝察には,遠く日光,塩原,葉山,箱根まで往診することもあったという。
 こうした機会を得て,歯科医学に対する理解は徐々に高まり,一般社会にも口腔衛生への関心が醸成されてきていた。しかし,優れた洋方歯科技術を提供できる歯科医の数は限られていた。紀齋は,日本にもボルチモア歯科医学校のような学校が必要であることを痛感していた。彼の情熱はしだいに歯科医育を専門とする学校の設立に向かうようになっていく。高山自身も不惑の歳を迎え,働きざかりでもあり,また,仕事に充実感を味わえる年齢に達していた。