明治33年,紀齋は歯科教育の現場から手をひき,臨床医として診療活動をしていく道を選んだ。学院を血脇に譲ってからは,紀齋はもっぱら銀座の診療所で患者の診察にあたり,時には召されて皇族,政治家など,有名諸氏の拝診に徹している。その診療収入は莫大なものであったという。また,日露戦争の頃には株に投資するなどして財をなし,芝区白金三光町には土地2,000余坪を取得し,住居も芝区二本榎西町2番地へ移転している。ただし,これにはかなりの浮沈があったようである。
 趣味は広く諸芸にわたり,将棋,碁,さらに茶道,華道をよくし,診療所には折々の花が活けられて,患者の目を楽しませ,まるで生花展覧会のようであったという。ほかに,当時は高価であった写 真を道楽にしたことがあり,次々と高級カメラを買い求め,また診療所には暗室を備えつけて,撮影旅行にもしばしば出かけている。写 真にあきた晩年には,絵筆をとって絵画をよくし,数点の作品を残している。
 昭和6年6月20日,妻の愛子は紀齋より先に67歳の生涯を閉じた。本人の希望と紀齋のはからいにより,遺体は土葬にしたという。そして2年後の昭和8年2月5日,高山紀齋は82歳の長寿をもって他界した。2月15日,創立者・高山紀齋の葬儀は,学校葬をもって遇され(図6 高山紀齋校葬(昭和8年2月15日,本校ホール),図7 デスマスク(春山哲二作)),自らの蒔いた西洋歯科医学の種が大きく育ち,それは東京歯科医学専門学校のオランダ風の校舎となって花開き,その歯学の殿堂の本館中央ホールにおいて,盛大に営まれた。
 高山家の菩提寺は遍照山高野寺・文殊院,現在は杉並区和泉町にあるが,もともとは麻布白金台町にあり,『江戸名所図会』にもみられる名刹であった。この墓所は紀齋自身が父・紀次ら一族のために設けたものであり,大正9年に文殊院は杉並区和泉町に移転している。この墓所は昭和55年,本学創立90周年に際して整備され,中央には正六位 勲五等の紀齋の墓と愛子の墓が仲よく並び,両側に父・紀次らの墓碑が並んでいる。戒名は紀齋が“高岳院悟道紀齋居士”,妻の愛子は“普照院本室妙愛大姉”とある(図8 山家墓所(杉並区和泉町))。