アメリカに到着した野口は、さっそくペンシルバニア大学医学部にフレクスナー教授を訪ねた。突然の訪問に驚き、一度は断ったものの、はるばる日本から自分を頼って来たものを見放すわけにもいかず、月8ドルという条件で蛇毒研究の手伝いをしないかと声をかけた。その後、野口は米国の競争社会の中で数多くの論文をものにし、フレクスナーの要求に応えて、猛烈な勢いで蛇毒の研究を進展させ、フレクスナーも野口の卓抜した科学的才能と努力を賞賛するようになっていった。やがて、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功するなど、野口の業績は世界的にも高く評価されるようになったのである。


ロックフェラー研究所の野口英世
 
フレクスナーと野口英世 (1923年12月26日付で父母あてに送った写 真)


 1915年(大正4年)9月5日、野口は15年ぶりに故国の土を踏んだ。故郷に錦を飾った“世界の野口”は、記念行事、記念講演、晩餐会など、国民の大歓迎を受けている。しかし、野口にとっては、悶々とした研究生活からの気分転換という意味が大きかったようである。そして、なにより母シカ、恩師の小林と血脇、友人達への感謝の旅でもあった。約2ヶ月の滞在中、野口は猪苗代はもとより、新潟、大阪方面まで足をの ばしているが、血脇や小林はほぼ行動をともにし、野口の世話をやいている。


大正4年10月11日 大隈首相訪問
左より市島謙吉,大隈常信,野口英世,血脇守之助,大隈重信首相,
下村宏(台湾民政長官),石塚三郎,塩澤博士,小林栄

 9月23日には東京歯科医学専門学校を公式訪問して教職員、生徒一同を前に講演し、10月17日の卒業式にも列席して卒業生を激励している。11月には米国に戻った野口は、やがて黄熱病の研究に打ち込んでいくこととなる。