1922年5月、野口は恩師・血脇守之助らをニューヨークの埠頭に出迎えた。血脇ら一行は1月に日本を発ち、欧米歯科界の視察旅行の途次にあった。野口は血脇のために視察、見学、招待、宴席という綿密なスケジュールを立てて歓迎した。あまりに過密なスケジュールに、フレクスナーが“血脇を歓迎で責め殺すな”と苦笑したほどであった。
 5月26日にはホワイトハウスに第29代大統領ハーディングを表敬訪問。6月1日、日本人倶楽部において血脇守之助歓迎会が開催され、ニューヨーク在住の歯科医学界の名士多数が列席した。この席でフレクスナーは“野口の精神的な父は実に血脇である”と、野口の後見人としての血脇を紹介、最大級の賛辞を贈っている。6月9日にはニューヨーク歯科医学校校友会が主催した晩餐会が開催され、血脇と野口は来賓として招かれた。


コモドアホテルでの晩餐会。中央壇上に血脇守之助,野口英世

 結局、38日間にもわたって、野口は研究所には電報を打って指示を出しながら、つききりで血脇の世話をやいたのであった。6月29日、シカゴでの別れに際して、血脇は労を惜しまず世話をしてくれた野口に感謝の意を表し、“既往の私の世話を帳消しにしてほしい”と申し出た。感涙にむせぶ野口は“私は日本人です。恩義を忘れてはいません。それに恩義に帳消しはありません。昔のままに清作と呼び捨てにしてください”と応えたという。野口の真情にふれた血脇は、別離を前に“自重したまえ。あまりことを急ぐと、命は長くないよ”と言った。この別れが二人の永遠の別離になる とは、誰も予想し得なかった。